2009年9月3日木曜日

ある若いお母さんからのコメント

 この前、書いたMIXIの日記に、母親になった間もないある若い女性からコメントがありました。ここに紹介させていただきます。ここに引用されている、原爆の体験記には心が震えました。

「我が戦記」拝読しました。当時の様子は、想像を絶するものがあります。ひどいことをするのも人間、その中を生き抜くのもまた人間なのですね。

私は、高校生の時、広島への社会科研修で、被爆者の方(桑原千代子さん)から直接お話しを伺う機会がありました。以来、年賀状のやりとりをしていたのですが、今年は返信をいただいていません。Susumuさんの日記を拝読し、私もインターネットで検索してみました。ご存命かどうかの確認はできませんでしたが、体験をつづってあるHPを見つけました。

http://homepage2.nifty.com/hiroshimaaozora/kuwabara.htm

高校生の当時、最も印象に残ったのは、桑原さんのお母様が被爆直後、桑原さんのことを一瞬忘れてしまい、そのことを亡くなる間際まで謝っていたというエピソードでした。戦争は、尊い命を数多く奪うだけでなく、生存者にも死ぬまで治らないような精神的な傷を負わせるものなのだと思いました。

戦争を体験した方が高齢になられ、直接話を伺う機会が減ってしまうことで、人々の平和への思いが薄れていくのではないかと時々思うことがあります(現在も戦争で苦しんでいる方々は世界にはたくさんいると思いますが)。子供にも、戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えるために、折にふれ色々な体験をさせたいと思っています。

ありがとうございました。

2009年8月24日月曜日

山に隠れる

  戦争が敗戦に終わった、1945年(昭和20年)8月15日の1-2日後でした。当時近くの親しいお宅の陸軍中尉だったご長男が軍隊がなくなり、帰宅してきました。そして、「明日にでも米軍が来て、略奪が始まり、成年男子は殺され女性は乱暴されますよ。非常に危険だから、山に隠れるので、一緒に行きましょう」と誘ってくださったのです。

 そうしたら、父が「現在、北九州近くの海はすべて米軍によって機雷が敷設されていて、船は入ってこられないし、飛行場も爆撃で滑走路が使えなくなっているから、そんなにすぐ米軍が来ることは考えられないし、米軍が来てもまずアメリカは文明国だからそういうことはないと思う。慌てないで様子を見てから行動しなさい」と諭していたと母から聞きました。
 その後、かなりたってから海兵隊が占領にやってきました。やがて、北九州の占領軍はスミス少将が率いる第24師団に代わりましたが、その間、僕の見聞きした範囲ではそういう事件は一度もありませんでした。唯一の事件は朝鮮戦争が始まったとき、戦線に送られるのを嫌った脱走兵が出て、それを制圧逮捕しようとして発砲したアメリカ軍憲兵の銃弾に当たって同級生が一人死亡したということをきいただけでした。

 一度だけ、海兵隊のアメリカ兵に追いかけられて逃げたことがありました。学校の帰りに駅の近くまで来たら、向こうからビールらしいものをがぶ飲みしながら歩いてくるアメリカ海兵隊の兵士数人と出くわしました。一旦はすれ違って離れて行ったのですが、後ろから声がするので振り返ると彼らが何か言いながらこっちにやって来るのです。そこで僕らは必死で逃げました。一番、からだの小さかったH君が最後になったので、逃げながら振りかえって見ました。すると、なんとH君は彼らからなにやら貰ってニコニコしているのです。そこで、我々2-3人も後戻りしてチョコレートやチュウインガムをいくつも貰ったのです。少なくとも5年以上の間そういう物を見たことがなかった僕たちはすごく幸福になり、喜んで帰路に着きました。
 ところがその幸福もほんの1-2分でした。駅のすぐ前は焼け野が原で、何人もの戦災孤児たちがたむろしていました。そして、目ざとく僕らを見つけて、何人もがやってきて、僕らを取り巻き、せっかく手にしたお菓子をすべて奪って行ったのです。

 戦後に僕が出あった略奪はなんと、日本人の少年たちからだったのです。

 戦争中、日本の軍人が残虐行為をしたかどうかという議論があることは皆さんよくご存知だと思います。また中国東北部でソ連兵の略奪にあったという話もよくききます。こういった問題についての、僕の考えについても、そのうち発表させていただきたいと思います。




 


 

 

2009年8月20日木曜日

8月9日に思い出すこと

 8月15日の投稿をするには、その元がありました。一昨年の8月9日に、mixi の日記に下のような記事を書きました。そしたら、2人の方から今年の8月14日にこの記事を思い出してもういちど読みましたというコメントを戴きました。これは意外でしたが、戦争の問題を真剣に考えておいでの人があると知って心強く思いました。そこで、このブログを作り、15日に記事を書いたのです。



 2007年8月9日 Mixi (マイミク)の Susumu の日記
 1945年(昭和20年)8月9日の午前中、中学生だった僕は当時の小倉市(今の北九州市の一部)の手榴弾(手投げ弾)を作っている工場で働いていました。
 9時ころから工場の中庭で上半身裸になって、大きな鉄のハンマーを振るって、鉄ぐずを叩き割っていたのです。作業の最中、警報が出ました。B29爆撃機が小倉上空を旋回中というのです。
 爆弾投下もしないので、偵察中だろうということで、作業は続けられました。そのうち、B29は去っていったので、警報は解除されました。
 でもこの直後、長崎に原爆が投下され、美しかった町が一瞬に灰燼と化し、15万人近い人たちが死傷したのです。

 実はこの飛行機は原爆を積んでいて、小倉に落とそうとしていたのだそうです。一説によると天候の具合で、目標を長崎に変えたんだそうです。僕がこのことを知ったのは、その後、何年もたってからでした。
 もし、原爆が予定通り小倉に落とされていたら、僕は爆心で一瞬のうちに焼け死んでいたはずです。広島で見たように、工場の壁にハンマーを振り上げた僕の姿が、焼きついていたかもしれません。

 今の僕はこの日に生まれ変わったのです。



 写真は今朝撮った、青空の下のニセアカシアの花です。世界中の人が、そして僕の子供や孫たちが、このような空の元で、美しい花を楽しめるような平和な日々を持ち続けられることを祈っています。

 きっと、賢い皆さんが平和を守り続けていってくださると信じています。

2009年8月15日土曜日

67年前の戦地からの便り


 皆さん、インパール作戦って知っていますか?

 いま80台以上の方ならご存知でしょうか、70台後半の方は耳にしたことがある程度、それより若い方は特別の方を除いて全くご存じないでしょうね。

 昨年、亡母の法事のときでした。弟から亡父の形見としてもらった手紙類の中にあったのでと、僕宛の3通の葉書、僕が父に出した手紙、父からの返事の手紙の5通が手渡されました。今日はその3通の葉書のうちの1通についてお話ししたいのです。

 その葉書は左の写真のように、昭和17年(1942年)12月6日と思われる日付がついていて、ビルマ派遣弓第六八二四部隊本部の保谷幸男という人から、当時、小倉市(今の北九州市の一部)に住んでいた僕宛に届けられた軍事郵便です。右の写真はその文面です。この文面については少し、説明がいると思います。



 日中戦争が始まったのが1937年です。さらに日本が連合国を相手に宣戦布告をしたのが1941年12月8日です。この葉書はこの連合国相手の開戦から約1年後のものです。 そのころ、日本は東南アジアの多くの地域を占領していました。そのうちのビルマ(今のミャンマー)を占領していた部隊の兵士、保谷幸男さんからの葉書がこれなのです。
 文面と僕の微かな記憶から判断すると、当時小学校5年生だった僕が戦地の兵士に送った慰問の手紙が、たまたま保谷幸男さんに届き、それに対する返事がこの葉書のようです。当時、戦地の兵士に励ましの手紙や、慰問袋という袋に入れて、品物や手紙を送ることが盛んに行われていました。
 僕はこういう葉書を戴いたことはすっかり忘れていましたが、気になったのはこのビルマ派遣という文字でした。この1-2年後に日本はインパール作戦という無謀な作戦を開始し、ビルマに派遣されていた兵士をインドのアッサム地方にあるインパールの占領に向かわせたのです。この作戦は大失敗で、8万6千人の将兵のうち戦死者が3万2千人、戦病者(ほとんどが餓死者)が4万人だったといわれ、8割以上の人たちが死んだという無残な作戦だったのです。
 そこで僕は、この保谷幸男さんはきっとインパール作戦でなくなられたに違いないと思いました。でも念のためと、"保谷幸男”で 検索をかけてみたのです。なんと、お孫さんの渡辺美花さんのサイトが見つかったのです。渡辺さんに連絡して、保谷さんは長野県でご健在だとわかり、お手紙を差し上げ、なんと67年ぶりに2度目のご返事をいただけたのです。そして、保谷さんがお書きになった「我が戦記」(インパール戦記)を読ませていただきました。そして強く心を打たれました。

 これ以上多くは語りません。8月15日という今日、ぜひ読んでみてください。
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