2009年8月15日土曜日

67年前の戦地からの便り


 皆さん、インパール作戦って知っていますか?

 いま80台以上の方ならご存知でしょうか、70台後半の方は耳にしたことがある程度、それより若い方は特別の方を除いて全くご存じないでしょうね。

 昨年、亡母の法事のときでした。弟から亡父の形見としてもらった手紙類の中にあったのでと、僕宛の3通の葉書、僕が父に出した手紙、父からの返事の手紙の5通が手渡されました。今日はその3通の葉書のうちの1通についてお話ししたいのです。

 その葉書は左の写真のように、昭和17年(1942年)12月6日と思われる日付がついていて、ビルマ派遣弓第六八二四部隊本部の保谷幸男という人から、当時、小倉市(今の北九州市の一部)に住んでいた僕宛に届けられた軍事郵便です。右の写真はその文面です。この文面については少し、説明がいると思います。



 日中戦争が始まったのが1937年です。さらに日本が連合国を相手に宣戦布告をしたのが1941年12月8日です。この葉書はこの連合国相手の開戦から約1年後のものです。 そのころ、日本は東南アジアの多くの地域を占領していました。そのうちのビルマ(今のミャンマー)を占領していた部隊の兵士、保谷幸男さんからの葉書がこれなのです。
 文面と僕の微かな記憶から判断すると、当時小学校5年生だった僕が戦地の兵士に送った慰問の手紙が、たまたま保谷幸男さんに届き、それに対する返事がこの葉書のようです。当時、戦地の兵士に励ましの手紙や、慰問袋という袋に入れて、品物や手紙を送ることが盛んに行われていました。
 僕はこういう葉書を戴いたことはすっかり忘れていましたが、気になったのはこのビルマ派遣という文字でした。この1-2年後に日本はインパール作戦という無謀な作戦を開始し、ビルマに派遣されていた兵士をインドのアッサム地方にあるインパールの占領に向かわせたのです。この作戦は大失敗で、8万6千人の将兵のうち戦死者が3万2千人、戦病者(ほとんどが餓死者)が4万人だったといわれ、8割以上の人たちが死んだという無残な作戦だったのです。
 そこで僕は、この保谷幸男さんはきっとインパール作戦でなくなられたに違いないと思いました。でも念のためと、"保谷幸男”で 検索をかけてみたのです。なんと、お孫さんの渡辺美花さんのサイトが見つかったのです。渡辺さんに連絡して、保谷さんは長野県でご健在だとわかり、お手紙を差し上げ、なんと67年ぶりに2度目のご返事をいただけたのです。そして、保谷さんがお書きになった「我が戦記」(インパール戦記)を読ませていただきました。そして強く心を打たれました。

 これ以上多くは語りません。8月15日という今日、ぜひ読んでみてください。
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